『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』 先崎学

棋士にとってうつ病体験はどんなものであったかがビビッドに語られた本

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うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間 先崎学 文藝春秋
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 本書は、プロ棋士で、「3月のライオン」の監修や週刊文春の連載などで一般にもなじみの深い先崎学九段がうつ病となり、回復するまでを克明に語った本である。
 将棋のプロ棋士がうつ病になったらいったい将棋の能力はどうなってしまうのか、そしてその回復の過程は、というのは、これまでに一度も語られたことのない内容であり、誠に貴重な報告である。
 しかしながら、本書の意義は、棋士のうつ病、という特殊性だけではない。うつ病にかかるという体験が一体どのようなものかを理解するためにも、大きな力となる本である。
 筆者のような精神科医であっても、治療する精神疾患のほとんどを、自分ではまだ経験したことがない訳である。こうして実際にうつ病を体験された方、しかも内省力、筆力のあるプロ棋士の方による、うつ病の回復過程に関する克明な描写は、筆者にとっても大変勉強になった。特に、治っていく過程におけるさまざまな症状の回復の過程-もちろん個人差がある訳ではあるが-についての衒いのない率直な記載は、何ともビビッドなものであった。
 退院後、幸せそうな人たちを見て惨めになって涙が出て、感情がゆさぶられるということはうつが良くなっているということ、と気づいたところ(p75)、自分はまだ価値がある存在なんだ、と思えた時に感激したこと(p78)、プライドが傷ついてソファーを蹴飛ばしたりするところ(p156)など、きっと同じような体験をされた方もいらっしゃるのではないだろうか。また、随所で紹介される、精神科医のお兄様のアドバイスもしっくりくるものばかりである。
 何よりも、プロ棋士がうつ病になって、アマチュア向けの七手詰の詰将棋も解けなくなり、泣く泣く五手詰から練習し始めた、といった話は、胸に迫るものであった。與那覇潤氏の「知性は死なない」でも、うつ病が能力を失わせてしまうことについて言及されていたが、「うつ病」という病名で、「気分」の障害とされていることにより、この病気が誤解されやすくなってしまっている面があることを改めて感じた。
 現在、うつ病における「認知機能障害」の評価法としてさまざまな神経心理学的検査法が用いられているが、こうした検査を何度も行うのは負担になるし、同じ検査を何度も行った場合には学習効果もあり、うつ病からの回復をモニターする方法としては用い難い。先崎九段が、詰将棋や対局の状況から自らの脳の回復の調子をモニターしておられる様子を読み、こうしたうつ病の回復過程の定量化方法はないものだろうかと考えさせられた。
 また、ひと言で復職するといっても、その人の仕事によって求められるものは千差万別であろう。本当はうつ病の診療にこそ、個別化医療が必要なのだが、そう簡単ではないと思い知らされた。
 本書は、プロ棋士がうつ病になったという希有な体験談であることに加え、それが文筆家でもある先崎九段であったこと、そしてそのお兄様が精神科医であったことなど、多くの要素が加わって、ますます意義深い本になったのだと思う。

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