『脳に棲む魔物』

本当の医学の進歩とは何かを考えさせる本

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脳に棲む魔物 スザンナ・キャハラン(澁谷正子訳) 角川書店
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 ニューヨーク・ポスト紙の新聞記者であった著者が、幻覚・妄想状態となり、生還するまでを描いたノンフィクション。著者が回復後に、正気を失っていた自分を追うルポルタージュであると同時に、精神疾患と神経疾患の間隙を問う医学ドキュメントでもある。
 著者の罹った病気は、最終的に抗NMDA受容体脳炎と診断された。この病気は、2008年Lancet Neurology誌に報告されたばかりの疾患である。卵巣腫瘍などに伴って、主要な神経伝達物質であるグルタミン酸の受容体の一種であるNMDA受容体に対する自己抗体が産生されてしまうことが原因で、激しい幻覚妄想状態を呈する疾患である。この病気は、近年、神経内科および精神科領域で、新たな疾患として注目されているが、この病気が発見されるまでは、緊張型統合失調症などと診断されていたはずの病状であり、著者が罹患した2009年には、まだ広く知られるには至っていなかったと思われる。
 本書では、さりげない日常の中に、トコジラミに噛まれたという考えに囚われることを契機に、左手の痺れを感じ始め、少しずつ病魔が忍び寄ってくる様子が克明に描かれ、その病状の進展の様子は、戦慄を覚えずにはいられない。いったんは伝染性単核球症という診断に納得したものの、訳もなく感情がコントロールできなくなり、周囲の色が妙にけばけばしく見え、取材中に話について行けなくなってしまう。てんかん発作を起こしたのを契機に救急車で病院に運ばれるが、興奮して以前受けたMRI検査の担当技師に対する被害妄想を言いつのるなど、次第に様子がおかしくなっていく。母親が精神科医である友人に聞いたら、双極性障害ではないかと言われ、「創造的な人々の会員制クラブの仲間入りをした」と恍惚とする。その後やっと神経内科医を受診するが、発作に対して抗てんかん薬を処方されるのみ。精神科医は、双極性障害の混合状態と診断し、抗精神病薬を処方する。
 次第に唇を吸う、歯を食いしばるなど、この病気に特徴的な症状も現れるが、当時の神経内科医も精神科医も、これに気づくことはできない。ついには、書斎の絵が動き出し、父親が人を殴っている音が聞こえるといった錯覚・幻覚や、何もかもが策略だ、といった妄想に支配され、感情が昂ぶって父を泣かせるほどにひどい言葉を投げつけ、家族もへとへとに疲れていく。しかし神経内科医は、「脳波はまったく正常、(中略)MRIは正常、検査は正常、血液も正常。すべて異常なしです」として、家族の「でも、娘はまともじゃないんです」との叫びにも、異常な言動はアルコールの離脱症状だ、と診断するのみであった。何とかかけあって、てんかん病棟に入院するが、今度はカプグラ症候群(注:本書の記載からは、実際にはフレゴリ症候群と思われる)が現れるなど、幻覚・妄想状態が悪化していく。
 どの医師が診断しても結論が得られない中、十人を超える医師の診察の後に主治医となったナジャー医師が、髄液検査におけるわずかな細胞数増加と、時計描画テストにおける半側空間無視の所見を手がかりに、最近報告されたばかりの抗NMDA受容体脳炎の診断の可能性を考え、ついには右前頭葉の脳生検(脳外科手術により1cm3ほどの脳を切除して、病理組織学的な検査を行う)を行うことを決断する。この検査により脳血管周囲の炎症性ミクログリアの集積という所見を見いだし、さらに抗NMDA受容体脳炎を発見したダルマウ博士に依頼して、血清抗NMDA受容体抗体を確認し、この病気の確定診断に至る。その後、大量免疫グロブリン療法、血漿交換療法、そしてステロイド療法により、彼女はゆっくり快方に向かい、ついには復職に至る。
 その間、死ぬかもしれない、という病気を受け入れることができなかった母、離婚して疎遠になってしまっていた娘との時間を取り返すかのように寄り添う父、そして決して彼女の両親のようにならずに支えていこうとするボーイフレンドのスティーヴンなどと、関係を再構築していく過程も丹念に描かれ、著者の病気を巡る家族の葛藤を描いた小説としても読める。
 しかしながら、筆者にとって本書は、医学の進歩とは何かを改めて考えさせるものであった。激しい精神症状がでていても「検査に異常はありません」と診断した神経内科医も、症状が合致するからと「双極性障害」と診断した精神科医も、決して責めることは出来ない。この病気の原因は、彼女が罹患したわずか1年前に論文として報告されたばかりだったのだ。そして、医学の進歩には、神経内科も精神科もない。病気に境界線など存在しないのである。いったん原因が解明され、治療法が開発されれば、医療は変わる。脳生検という、究極の侵襲的な診断法が必要で、治療に1億円(百万ドル)かかったけれど、それまで診断されないままに命を失ったり、精神科病院への長期入院を余儀なくされたかも知れない病気から完全に回復し、復職できたのである。本書の帯に「医学ミステリーの面白さを遙かに超えている!」とあるが、当然だろう。文筆を業いとする著者が、脳疾患領域において近年最大の発見の一つといえる病気の解明によって人生を取り戻した、真実の物語なのだから。
 うつ病を診断できる検査法ができたとか、ありもしない医療が喧伝されたりすることもあるこの頃であるが、本当の医学の進歩とは、こういうものなのである。 

参考:
 著者のWebサイト(本人によるビデオ解説あり) http://www.susannahcahalan.com/
 本作は、子役時代に『アイ・アム・サム』の名演技で注目された女優ダコタ・ファニングの主演で映画化されるとのこと。http://www.cinematoday.jp/page/N0062759 

 

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