『CRISPR(クリスパー)  究極の遺伝子編集技術の発見』

基礎研究者であるダウドナ博士が社会への対話へと進む過程を描いた本

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CRISPR(クリスパー)  究極の遺伝子編集技術の発見  ジェニファー・ダウドナ、 サミュエル・スターンバーグ著+櫻井祐子訳  文藝春秋
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 CRISPRを用いたゲノム編集技術は、発表からわずか5年しかたっていないのが信じられない程、生物学研究に幅広く用いられ、遺伝子改変動植物の作成や遺伝子疾患の治療など、幅広い応用により社会に大きな影響を与えつつある。本年ノーベル賞が授与されなかったことが意外であった程の技術である。
 当研究室でもモデル動物作成等に日常的に用いており、その技術自体はよく知っているため、本書を書店で見かけた時は、一度は読まなくても良いかな、と思ったのであるが、それは大きな間違いであった。
 何しろ、この技術開発の中心人物の一人であるダウドナ博士ご自身の執筆(研究室のメンバーとの共著)であるため、CRISPR/Cas9の原理を明らかにし、ゲノム編集技術として確立し、それが世の中に広まって行く過程がビビッドに描写されている。
 本書は2部構成であるが、筆者は大きく3つに分かれる印象を持った。1つ目が、研究の過程。2つ目がこの技術の応用が広がる様子。そして3つ目が、この技術に対する倫理的懸念から社会との対話の努力を始めるに至る部分である。
 前半では、ダウドナ博士がCRISPRの研究に参入した時点で既に、この現象がホットになり始めていたということが意外であった。ノーベル賞の影響もあって、ついつい最も貢献したのは誰か、という話になりがちであるが、一つの発見の貢献を3人以内に帰すること自体、本来無理があり、長く、いつ役に立つとも知れない基礎研究の成果の結実がこの技術であると再認識した。また、最初の論文を読んだ時に、なぜわざわざ化膿レンサ球菌という病原菌を用いたのか不思議に思っていたが、共同研究者のエマニュエル・シャルパンティエ博士がこの病原菌の研究者である一方、ダウドナ博士はこの病原菌の扱いには慣れておらず、最初から精製蛋白質などのインビトロ実験系のみを行う計画であり、それが結果として、この現象を「技術」に高めるというアイデアに一役買ったように思われる。
 中盤では遺伝子改変食品や遺伝子病の治療法への応用など、幅広い応用が紹介されている。しかし、その中でも「遺伝子ドライブ」という方法は、CRISPRそのものをCRISPRで組み込むシステムを組み込んだ動物を野に放つことで、その生物種全体の遺伝子を改変したり、絶滅させたりすることまで可能にする方法であり、筆者としてはCRISPRの応用可能性の中で、生物兵器等にも用いられてしまう危険が危惧されるものとして、最も早急に社会的対応が必要なものと感じる。
 しかし、ダウドナ博士が何より危惧しているのは、人の生殖系列の遺伝子改変である。その危惧が生じたきっかけが、ヒトラーが研究室にやってきて、「君が開発したすばらしい技術の利用法や意義をぜひとも知りたいのだよ」と言った、という夢だったのだという。
 ダウドナ博士自身は、生殖系列の遺伝子病治療には賛成の立場と思われ、それは本書の冒頭で、偶然に生じた変異によって、重い遺伝病がすっかり治ってしまった症例の紹介から始まっていることにも現れている。危惧しているのは、いったんそれが認められると、能力を高めること(エンハンスメント)に対してまで拡大されてしまうことである。
 その後ダウドナ博士は、CRISPRを人の生殖系列の遺伝子改変に用いることについて警鐘を鳴らし、人の受精卵を対象とした研究を一旦中止して社会との対話を進めるべきであるという意見を会議でまとめ、論文にまとめて発表するなど、社会との対話を始めるに至った。本年6月(原著)に出版されたこの本の執筆も、その一環という訳である。
 細菌における免疫機構のミステリーを解明したいという基礎研究に没頭した結果、大発見をしたダウドナ博士が、その現象をゲノム編集という「技術」へと結実させ、その技術の社会的影響に気づいて社会との対話を始めるに至るという、一人の優れた研究者の更なる自己形成過程の物語のようにも思える。
 生物系研究者にはCRISPRの発見の経緯、一般の方には医療や食品への幅広い応用の可能性、生命倫理・科学コミュニケーション関係者には研究者の社会的役割、と多くの視点で読める本である。
 原著のタイトルは、直訳すると「創造の亀裂: 遺伝子編集とその進化を制御する考えられない力」というものであり、この日本語タイトルでは、生命倫理などに興味を持つ読者に届かないのではないかとやや心配である。

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