『人はみな妄想する-ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』

ラカンを読み解き、現代の精神医学が失いつつあるものを復権させる書

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 人はみな妄想する-ジャック・ラカンと鑑別診断の思想 松本卓也著 青土社
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 精神医学の巨人のうち、ジャック・ラカンについては、昨年惜しくも亡くなられた大東祥孝先生より、色々とお話を伺い興味を持っていたものの、どうしてもハードルが高く、しっかり勉強したことがなかった。その思想の難しさに加え、その著作が、書かれた内容に加えて、その文章そのものにもさまざまな含意があるといった話を伺うと、フランス語のできぬ者には到底理解できないのではないかという思いもあった。
 連休中に本棚を整理している途中に出てきた「現代思想」2014年5月号で、松本卓也氏がラカン派の立場から的を射たDSM批判、構造化面接批判を展開されており、これが思いのほかわかりやすく書かれていたため、この松本氏の最新の著作に興味を持ち、早速読んでみることにした。
 ちょうど序論が上記の内容から始まっていたこともあり、内容の割には、比較的入り込みやすく感じられた。ラカンの難しさの一因は、彼の考えが時代と共に変遷していることにある、という点にあり、これは筆者にとっても難儀な点であった。
 これまで、ラカンとヤスパースは全く関係ないと思っていたが、何と、ラカンはクレペリンやヤスパースにより体系化された精神病理学に価値を認めており、ヤスパースの議論とは組み立ては全く異なるものの、同じ現象について異なる観点から検討している面もあることがわかった。しかし、ヤスパースの精神病理学は、幻覚・妄想を呈するいわゆるヒステリー性精神病(p54)や、日本に特徴的とされる重症対人恐怖における妄想(p213)に対しては無力である。ラカンは、ヤスパースらの古典的精神病理学の体系による精神病の理解に、フロイトの精神分析による神経症および精神病の理解を体系化して統合した (p31)。このことによって、初めて統合失調症の幻覚・妄想とヒステリー性の幻覚・妄想の鑑別が可能となった。
 驚いたのは、ラカンが決して生物学的精神医学を否定しているのではないということである。ラカンは、学位論文の中で、精神病の原因を誘因、作用因、特異的原因の3つに分けて考えているという。このうち、誘因は精神病の発症を引き起こしうる器質的障害であるが、これは発病のきっかけになるだけであり、妄想や内容と形式を決定することはない、という(p124)。現代の精神医学では、心理的な誘因よりも生物学的な病因を重視し、精神病理学においては、診断的な意義のある妄想の形式を重視し、個々の心理的な影響を受ける妄想内容は相対的に軽視される傾向がある。ラカンの考えは全く逆で、生物学的な誘因はきっかけに過ぎず、幼児期の家庭環境の異常と関連した人格の発達停止を精神病の特異的原因と考えているという。生物学的精神医学とラカン派の精神分析は全く相容れないものと考えていたが、これもまた、実は同じ現象を二つの方向から見ているだけかも知れない、と考えさせられた。
 例えば、一時期のラカンは、精神病では中心のシニフィアンが欠如しているために、その周囲(縁)のシニフィアンがバラバラになっており、これらが幻聴などの形で主体を襲う、と述べていた。本書が鑑別診断を主眼としたものであるためかも知れないが、なぜ中心のシニフィアンが欠如しているのか、ということについては説明されていない。筆者には、そのシニフィアンの欠如こそが、脳の一次的な病態に対応したものなのかもしれない、と感じられた。ラカンが主に説明しようとしたものは、その一次的病態に対応する主体の反応なのであろう。主体の語りを通して、主体の反応が何に対するどのような反応であるのかを理解することにより、ラカンは神経症と精神病の鑑別を行おうとしていたように思える。
 また、ヤスパース流に、自我障害を統合失調症の基本障害と考えた場合、なぜ統合失調症の発症年齢が自我の確立の年齢より遅いのか、という点がうまく説明されていなかったように思う。しかし、他者の行動や発言を模倣することによって、見かけ上良好な適応を成し遂げる「かのようなパーソナリティー」の破綻が発病に至らせるというラカンの考えは、この点で、得心のいくものであった。
 とはいえ、第四章「エディプスコンプレクスの構造論」あたりから、少しずつ筆者のような者にはハードルが高い記述の割合が増え、随所にある著者によるサマリーに助けられて何とか読み進めつつも、次々と更新されるラカンの考えや謎めいたシェーマに翻弄され、最終的には全てを理解することを諦める他なかった。ラカン自身、ボロメオの結び目の議論を行った最後のセミネールで、「何も理解できない」と早々に講義を中断してしまったと聞くと、考えさせられるものがあるが…。
 そして、ラカンは精神分析の終結を洗練された自閉症を目指すことと捉えていた、という話や、ガタリ&ドゥルーズおよびデリダとの論争についての記述によって、本書の中核部分は終わる。
 筆者の専門からあまりにも遠い領域故、理解を超える部分も多かったが、膨大なラカンの文献を読み解き、こうしてまとめ上げた著者の力には誠に感服するばかりである。著者の松本卓也氏は、まだ32歳だという。自分の同年代の頃のことを思うと、この年齢でこのような書物を執筆されたことについては、驚嘆する他ない。本書の前半では、著者の実際の臨床例や日本の臨床家の提示する症例についての解釈が示され、ラカン的な視点を取り入れた臨床とはどのようなものかがわかりやすく示されているが、後半にはそのような部分が少なくなっていく。著者は最後に、「絶えず臨床との対話のなかから理論を展開していく必要がある」と述べているが、ぜひ現実の患者さんから離れることなく、現代の精神医学が失いつつあるものを取り戻し、より意義ある精神医学へと進化させることに力を尽くしていただけることを期待したいと思う。

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