『カンデル神経科学』

神経科学に関わる者にとって最良の教科書

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 カンデル神経科学 金澤一郎・宮下保司監修、Eric R. Kandel他編 MEDSi
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 脳は、ヒトの身体と、ヒトの精神が作り出した社会とのインターフェースとなっている臓器であり、脳科学研究は自然科学に根ざしながらも、広く人文・社会科学ともつながる広大な領域となっている。脳の複雑さから、精神機能の物質的基盤の全貌解明は未だ途上であり、がんをもしのぐほどの社会負担となっている精神神経疾患の解明が、他の医学領域に比べて遅れているのも、脳の複雑さ所以であろう。
 精神神経疾患を理解するためには、脳科学の知識を身につける必要があることは言うまでもないが、発展途上の脳科学の最先端を理解することは容易ではない。
 本書は、精神医学から神経科学へ転じ、シナプス可塑性の研究でノーベル賞を受賞したエリック・カンデル博士が中心となって編集した、神経科学領域で最もスタンダードとされる教科書、「Principles of Neural Science 5th edition」の日本語訳である。原著は、カンデル博士を筆頭に、主に米国の、各領域の最高権威の方々により執筆され、例えば伝達物質放出の章は2013年にノーベル賞を受賞したトーマス・スードホフ博士ら、においと味の章は2004年に同賞を受賞したリンダ・バック博士らにより執筆されている、と例示しただけで十分であろう。そして、翻訳も、監修の金澤一郎、宮下保司両氏を筆頭に、錚々たるメンバーによりなされており、まさに日米の神経科学の叡智を結集した本である。
 一読して気づくのは、その読みやすさである。歴史を踏まえた記載、基礎的事項においても常に病態との関連を忘れない視点、如何なる実験でその発見がなされたかの説明などに満ちているために、決して単なる知識の羅列にとどまらず、興味をそそる読み物となっているのである。特に、カンデル博士自身の手による、第17章「神経細胞から認知へ:空間と行動の内的表現」における、フロイトやラマチャンドランを引用しつつ、意識と無意識の神経基盤に迫る論考は、ここだけを読むために本書を手にする価値のある章である。
 章立てにも編者の思想が反映されており、例えばPart Ⅳの「認知の神経基盤」に、「前運動領野系の認知機能」という項目があり、リゾラッティ氏が執筆している点は興味深い。
 細分化された科学の現場においては、専門領域の細かなことを議論することも重要であるが、全体のパースペクティヴを得ることはそれにもまして重要である。しかし、個々の論文を読むだけで俯瞰した視点を身につけることはできず、こうした書物は誠に貴重である。本書を読むと、多数の介在ニューロンを連結して同期性を生み出し、アストロサイト同士をつないでカルシウムウェーブを実現している「ギャップ結合(電気的シナプス)」や、ランビエの絞輪、シナプス小胞、シナプス後肥厚などの実態が、具体的でダイナミックなイメージとして浮かび上がってくる。また、セロトニン、ドーパミンなどの神経核がどこにあっておよそどのような投射をしているかということは、精神科医であれば知らない者はいないであろうが、そもそもモノアミン系とはどのような意味があるのか、より高い位置から俯瞰して理解することができたように思う。その他、痒みに関わる末梢神経、味覚の分子生物学、聴覚のメカニズムなどの最近の進歩を俯瞰することができた。
 第48章「情動と感情」では、冒頭で生理的反応を情動と定義すると書かれ、主観的体験は取り扱われないのだろうか?と思って読んでいたら、後半ではしっかりと主観的体験としての感情について議論されており、著者を見たらなんと、ルドゥーとダマシオという、両側面の権威による合作であった。
 第51章「睡眠と夢」では、REM睡眠の夢とNREM睡眠の夢をフロイトの考察と結びつけており、興味深い。
 また、何がまだわかっていないか、という点についても触れられている部分も興味深い。例えば第54章で、神経細胞の突起のうち、一つが軸索となると、他の突起が樹状突起となっていくが、これは形成された軸索に由来する何かの因子が第二の軸索発生を抑制し、樹状突起形成を促進することを示唆するが、そのような因子は見つかっていないことが書かれており、若手にとってはチャレンジ精神を刺激されるであろうし、筆者のようなシニアな者としても、ある日ジャーナルの目次を見ていたら、そのような因子が発見された、という日が来れば、感慨深いだろう。
 教科書は原書で読むべきだ、と仰る方も多いであろうし、それもまた真実であるが、日本語で読んで初めて気づかされることもあるだろう。本書で、「キノコ型スパイン」と書かれているのを見て、専門用語のつもりで「マッシュールームスパイン」と口にしていた自分が何となく恥ずかしくなった。英語で書かれた知識を日本に持ち込むだけで大きな意義があった明治時代と異なり、現代の日本の研究者に求められているのは、世界最先端の教科書を書き換えるような新たな知識を生み出すことである。そのためには当然ながらどこが最先端なのかを熟知していなければならない。本書は、我々が「巨人の肩の上に」立ち、最先端の研究を進めることを可能にする貴重な書物である。
 本書を読むと、どの領域の内容も大変豊かであり、最先端の研究成果が書かれているかのように思えてくるが、自分の専門領域に近い部分を見れば、気分障害の項目にはBDNFさえ出てこないなどから、おそらく他の章も、決して研究の最前線を網羅している訳ではないのだろう、ということが思い知らされる。本書のような分厚い教科書を持ってしてもカバーしきれないほど、神経科学は広大であり、にもかかわらず、それを把握した上でなければ、神経科学の最先端に取り組むことができないという現実に直面することになるのである。
 広大な領域にわたる神経科学を全て細かく把握している者はおそらくいないと思われ、このような本を一人で執筆することは不可能と言って良いだろう。本書は、これから神経科学を学ぶ者にとって最良の教科書となることは言うまでもないが、既に研究者である者にとっても、他の領域について学ぶために非常に有用であり、神経科学に関わる者に、本書を必要としない者はいないであろう。
 唯一難点を述べるとすると、その重さである。新幹線で読んでいるとついつい引き込まれてあっという間に東京から京都まで着いてしまうほどの面白い本なのであるが、持ち歩くのが非現実的なほどに重い。こういう書物こそ、電子書籍も販売して欲しいものである。
 それにしても、本書の編集に関しては、出版の早さ(原著出版から1年半での日本語出版)、価格の安さ(原著より安価)など、驚くべき点が多い。それも、内容の正確さ(原著のミスまで指摘してある点では原著よりも正確な程である)、図表の美しさ、日本語文の滑らかさなど、素晴らしい質を保ちながらであることは、実に驚嘆すべきであり、編集に携わった方々の並々ならぬご努力に、心から敬意を表したい。

 (本稿は、週刊医学界新聞2014年12月8日号に寄稿した記事のロングバージョンである。)
 

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