『医療の選択』

日本の医療はどこへ向かうべきかを考えさせる本

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医療の選択 桐野高明 岩波新書
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 著者の桐野高明先生は、東京大学医学部長などの要職を歴任され、現在、国立病院機構理事長を務めておられ、海馬の遅発性神経細胞死の発見の業績により神経科学の領域でも世界的に広く知られている方である。本書では、その桐野先生が、世界に例のない速度で超高齢化が進むこの日本がどのような医療を目指すのかを国民に問いかけている。しかし、決して結論を提示して「啓蒙」しようというものではなく、情報を提示して読者に考えさせる内容となっている。
 世界的に見ると、医療システムは、医療を自己負担で購入するサービスとみなし、市場原理に任せる米国(・中国)型の医療、国民の高い負担を覚悟して、可能な限り公平で平等な医療制度を目指すヨーロッパ型(英国型)の、大きく二つに分かれる。
 米国では、市場主義を徹底することにより医療がより良いものになっていくはずだという主張が存在する。しかし、実際には、市場主義により、逆に医療費が高くなり、利用面で格差が生じるというパラドックスが発生している。
 一方、後者の典型である英国の医療においても、登録した主治医のみしかかかれず、逆に医師も自由に開業することが出来ないといったさまざまな制約があり、受診まで何日も待たされ、患者の不満から医師の士気も下がってしまっているといった問題が生じている。            
 現在交渉が進められているTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の中で、米国は日本に混合診療を要求しているのではないかと懸念されているが、日本の経済界からも混合診療を解禁すべきだとの声がある。しかし、混合診療の導入は、医学的に根拠のない危険な治療法がまかり通ることになるという危険をはらんでおり、医療費高騰、医療の格差を拡大する結果につながることも懸念される。実際、1967年に混合診療を全面的に取り入れた歯科では、保険でできる治療を保険がきかないとして高く請求するなど、さまざまな問題が噴出し、1976年に混合診療が中止されている。
 現在の日本の医療システムは、米国型、ヨーロッパ型の中間的なものであり、医療の費用は公的な国民皆保険制度により支えられる一方、医療の提供は主として民間により支えられている。その特徴は、国民皆保険、公定価格、自由開業制、フリーアクセス(患者が自由に医療にかかることができる)である。
 日本国内では、医療に対する満足度は必ずしも高くないが、実際には、日本の医療は、世界的に高く評価されており、WHOの調査でも、191カ国中1位の評価を受けている。2010年のニューズウィーク誌による医療の国別ランキングでも日本は総合1位であったし、2011年にはランセット誌が日本の国民皆保険制度50周年を記念して、これを評価する特集号を掲載した。日本では医療に限らずたいていの満足度調査で低い値が報告されていることから、医療に対する満足度の低さも、国民性を反映しているのかも知れない。
 このように、日本の医療が世界的に高く評価されている中で、医療費の高騰、超高齢化などの喫緊の課題をどう乗り越えていくか、日本は、お手本のない医療の未来を描いていく必要がある。医療費に限らず、社会保障においては低負担・低給付、高負担・高給付の2つの選択肢しかない。低負担・高給付という夢のような医療体制は、(産油国でもない限り)実現できないことを前提として、議論を深める必要がある。
 なお、本書で唯一取り上げられていない論点は、世界的に高い評価を受けている日本の医療は、現場の医師、特に勤務医の献身なしには成り立たず、他の国が日本のシステムを取り入れることができないのはそのためである、という現実である。これについては、大学病院の医療に長く携わってこられた著者であるだけに、十分承知していながら、あえて主張を抑制されたものと拝察する。
 このように重い課題を投げかける本書であるが、明るい未来の可能性も描かれている。ルイス・トマスによれば、医療技術の発展過程には、「非技術」「途上的技術」「純粋技術」の三段階があるという。腎透析や心臓ペースメーカーなどのような技術の進歩により、症状が緩和できるようになった「途上的技術」の段階では、病気そのものの治癒ができない一方で、膨大な医療費を必要とする。しかし、疾患の根本的な予防や治療が可能となった段階(天然痘、胃潰瘍など)では、むしろ費用は限定的になる。最先端の研究に最大限の力を注ぐことにより、人類が病気から解放され、医療費は限られた範囲ですむようになるという。
 日本の医療がどこへ向かうべきかを考えさせる本である。

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