『エピジェネティクス -新しい生命像をえがく』

エピジェネティクスの見取り図を手にすることができる本

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エピジェネティクス ―新しい生命像をえがく 仲野 徹 岩波新書
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 精神疾患研究の中で、エピジェネティクス研究について触れようと思うと、背景説明だけでも膨大となり、なかなかうまく伝えることができず、いつも困っていた。そのため、「誰か、これさえ読めばエピジェネティクスの面白さがわかると同時に基礎的なことをすべて理解できる、というような本を書いてくれないだろうか」と、本書の「はじめに」に書かれている通りのことを、筆者もいつも考えていた。
 それが、この本でまさに実現している。しかもそれが、発生・分化のエピジェネティクス機構の研究者であると同時に、大変な博学でHONZに書評を掲載されている仲野徹氏という、最高の書き手によって実現されたことは、誠にありがたい。まさに待望の書である。
 戦時中のオランダでの飢餓後の生活習慣病の頻度上昇などの興味深い例に始まり、ガードンの核移植実験などの歴史的経緯、科学哲学についての議論と続く。第二章からは次第に分子生物学の話となるが、そろそろついていけなくなる人が出るかも…というところでタイミングよく、「これ以上ややこしい分子生物学の話など読みたくないという人は(中略)ここから一気に第3章に飛んで読んでもらっても大丈夫」とガイドしてくれる。その飛ばしてもよいという内容は、筆者のようなエピジェネティクス研究者のはしくれにとっても頭の整理になる、大変有意義な内容であった。
 その後、興味深いエピジェネティクスが関わる事例が、ミツバチからがんまで、次々と紹介される。このあたりが一般の読者にとっては最も面白いところであろう。ただ、精神疾患のエピジェネティクスに興味がある読者は、少々がっかりするかもしれない。精神疾患については、「このような疾患においてエピジェネティックな異常が認められるという内容の論文が数多く報告されているが、それが疾患の原因であると確定されているものはほとんどない」というスタンスだからである。しかし、この認識は現在、精神疾患のエピジェネティクスに携わる多くの研究者が共有していることであり、筆者も同意見である。
 その他のエピジェネティクス研究の成果に関する認識についても、筆者としては納得することが多かった。たとえば、動物でエピジェネティクスが世代間で伝達される現象として確実なのは、レトロトランスポゾンのDNAメチル化に関する例(アグーチとアキシン)だけ、という認識や、すべての生命現象にエピジェネティクスが関与しているという考えも誤りではないが、それでは何も言っていないのと同じ、といった指摘は、すべて納得いくものばかりである。
 エピジェネティクスに関わる各プレイヤー(分子)の役割は確実にわかってきたが、実際の生命現象におけるそのメカニズムについては、膨大な研究が報告されている割には、確実に証明されているものは多くない。ゲノム研究に比べ、エピゲノムの研究はけた違いに複雑で困難である。そのような中で、エピジェネティクスへの過剰な期待には要注意、という点も強調されている。
 エピジェネティクスをゼロからきちんと勉強したい人は、これ1冊でしっかりした見取り図を手にすることができるだろう。そして、随所に取り上げられている興味深い話題の中には、筆者のような研究者もこれまで聞いたことのない話が含まれており、色々と発見があった。エピジェネティクスに初めて触れる方からエピジェネティクスの研究者まで、幅広く役に立つ、実に良い本である。

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